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zoom RSS 「新選組血風録」第7話の感想 ★ネタバレと猛毒有

<<   作成日時 : 2011/05/16 23:17   >>

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 新世紀版「新選組血風録」第7話を見ました。
「胡沙笛を吹く武士」でしたが…なんでしょうか、あの演出は。
以下ネタバレと毒舌有

 さて今回の話は司馬遼太郎の原作にある話です。
私は原作至上主義者ではなく、寧ろ原作をどのように変えてくるかというのを楽しみにしている人間です。
ですから寧ろ原作クラッシャーと呼ばれる人たちの方に好感を持つくらいなのです。

 が、しかし…。
今回はその中途半端さに歯がゆさを覚えました。
脚本はかなり思い切った方向性で書かれていた模様です。
モノクロ版では原作に近く淡々と話が進んでいく感じでしたが、逆にそのためかメリハリのない印象が強いように思いました。
もしあれをそのまま現代でドラマ化したらかなり重っ苦しく、そして今回の血風録の雰囲気では浮いてしまう可能性が高いんではないかと判断します。
そのためか、今回の川上脚本はかなりファンタジー性を加味しました。
逢魔が刻に胡沙笛を吹くと狐に化かされる、という言い伝えを付け加えたのです。
このこと自体に文句をつける方もいるでしょうが、私は上記したようにアレンジすることを奨励したい人間です。
それにこのアレンジはいい方向に向くように感じました。
ただしんねりと怖い京女ということではなく、何かしら魔がまつわってきているという感じを与えるからです。
そして主人公(鹿内)はその魔に囚われてしまう。
いい感じのアレンジだと思いました。

 その後の演出に口をあんぐりとあけてしまうまでは。

 なんでしょうか、あの光は。
演出というにはあまりに稚拙。
もし演出でやるならばもっと大胆かつくっきりと光と影を使わないといけないのに、ただ光だけ(にしか見えません)。
しかもいかがわしさ満開の色使いって、江戸川乱歩モノじゃあるまいし。
その上この意味不明(いや意味はわかるのですがわかりたくない)の光は一度だけではありません。

 光だけでなくカメラワークも現代風な感じでどんどん力が抜けていきます。
俳優さんたちはかなりの熱演なのにどうしてこんな撮り方するかなぁと思うくらいに顔のアップと平坦な構図。
そして極めつけは屯所に出頭を命じられた鹿内に小つるが「いっといでやす」と微笑みながら告げるシーン。
どうして、この台詞の構図が小つるのアップじゃない?
鹿内がその言葉を聞いてどんな顔をするかを見せたかったのでしょう。
でも、バッサリと切り捨てますが、不要です。
そんな表情は全然いりません。
何故ならばこの時、視聴者は鹿内に感情移入しきっていないといけないからですよ。
この場面はそういう設計で脚本が書かれているに違いありませんから。
追い詰められた鹿内が愛する女にまで突き放された。
その絶望感を視聴者は見るのではなく、鹿内と一緒に味合わないと意味がありません。
それが平坦な演出で視聴者はこの場面を見せられてしまったんです。
もしこの場面を口の部分だけをアップにして、微笑と台詞を突きつけられたら、わざわざ鹿内の表情など視聴者には提示する必要はないのです。
実際の構図は逆効果でしたね。
視聴者を馬鹿にしたのか、説明が多すぎます。
もっと視聴者を信用してくれてもいいんじゃないですか?

 そして問題のラストシーンです。
わけがわかりません。
脱走した鹿内が我が家の戸を開けるとそこには誰もいませんでした。
後刻、斬られた鹿内の刀には血の跡があり、家では小つるが斬り殺されています。

 ……

 ええっと、ここは逆に説明してくださいよ。
小つるがいないことに絶望した鹿内がどんどん追いつめられていき、ちょうど帰宅した小つるに再度逃げようとすがったが断られて逆上して斬り殺し、そしてあの森まで赴いて笛を吹いていた…。
そういうことですよね、普通に考えると。
でも、ね?
この脚本って普通に考えちゃいけない作品なんじゃないでしょうか?
わざわざ逢魔が刻、狐という道具をそろえたのですから、ここは思い切り飛ぶべきですよ。

 三つの道があります。

 一つ目は小つるは狐だったという超ファンタジー路線。
これはこれでアリだと思います。
逢魔が刻に笛を吹いた鹿内を化かしに現れた狐。
どういうわけかその人間に惚れたもののどうやらその魅力がなくなってきた。
しかも京を離れると人間の姿ではいられない。
だから頑強に京を離れることを拒み、そして子供ができたことで愛情は鹿内から離れてしまう。

 で、鹿内が我が家の戸を開けた瞬間、中は見せません。
そのまま画面は森で笛を吹く鹿内へ。
そして問答無用で粛清されたあと、刀の血を見ます。
原田と土方だけでなく、山崎も同席させましょう。
「誰か斬ったのか」「いいえ、鹿内の家にもここまでにも斬られた者などまったく…」
眉を顰める土方。山崎が言葉を継ぐ。
「ただこの向こうに狐が一匹…」
死体をわざわざ見せなくても伝わるでしょう。
ファンタジーにするならこれくらいまではいくべきです。

 二つ目。
逢魔が刻に化かされたのは鹿内だけでなく、小つるの方もだったという解釈。
どうしてあのような男に惚れて子供まで宿してしまったのか。
しかし宿った子供は可愛い。
だから私はこの京で子供を育てていく(あなたなどもういらない)。
しかし鹿内は親の顔を知らないという過去があり、父親の顔を知らない子供ということがそのままにしておけなかった。
そう思い込んでしまうほどに追い込まれていた。
だから、子供ごと小つるを斬った。
ただこのやり方で行くならば、それこそ結束脚本のように内面にずんずん切り込んでいかないといけません。
そういう仕掛けになっていないのですから、もしこうするならば光演出などせずに最後の悲劇、逢魔が刻に出逢ってしまった男女の悲劇に向けての演出をしておかないといけませんでしたね。

 最後に三つ目。
斬られた小つるを出さない。
あそこで死体を見せるから「はぁ?」となってしまうのです。
刀に血があろうがなかろうが、家の中にはあの狐の置物(?)だけが真ん中にぽつんとあるだけにしてしまわないと。
死体を見せるから「斬ったのかよ!」という印象が最後の最後に植え付けられてしまい、鹿内よりも子供ごと斬られた小つるの方に視聴者は感情移入してしまうんですよ。
あれが置物だけなら、視聴者はそれぞれの感情に応じて様々な思いを抱くわけです。
どうしてこうなんだって決め付ける必要があるのでしょうね。
しかもそのことにより、見ている者は寧ろ不快感を持つ結果になってしまうというのに。

 結局、演出家はどの道も選ばずに自分の感覚を視聴者に押し付けたという形になりました。
もし彼の感覚にぴったり合った視聴者がいれば、その人はうんうんいいねいいねと頷いていたでしょうね。
そういう人ってどのくらいいたのかなぁ。

 今回の作品はもしこの脚本に別のやり方でアプローチしていたとしたら、超駄作か、または超問題作、超異色作として記憶に残っていたでしょうね。
ところが残ったのは、光の残像だけときたもんだ。

 申し訳ありませんが、前回といい今回といい、やっていることが中途半端です。
どうせやるならもっと大胆にしてください。
魚眼レンズでやりたいなら実相寺レベルまでする。
オカルトするならもっと踏み込む。
男女のドロドロをしたいなら、投書が来るくらい(多分もうきてるでしょうね、雨のとか畳の指とかエロだけは力入れてた)に肉体描写でなく精神描写をこれでもかっていうくらいにやりましょう。
これでは「菊一文字」が不安です。

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